藤原国清

新刀期に菊紋を切った刀工は四人いるそうです。肥州(肥前・肥後)(肥前は現在のほぼ熊本県、肥後は現在のほぼ佐賀県と長崎県)の正広、山城守国清(二代、三代、四代)の四人です。
初代山城守国清(やましろのかみくにきよ)は島田吉右衛門と言う名で慶長七年(1602年)のうまれだそうです。信州松代(現在の長野県松代)の島田彦八助宗の嫡男だと言われています。当初は「助宗」と名乗っています。その後上京し、国広晩年の門人として学びました。師匠である国広の没後は信州に帰郷したそうですが元和二年(1616年)に下総から濃川中島に入封した松平忠昌に仕えることになります。元和五年(1619年)には越後国高田に同行。さらには寛永元年(1624年)に越前の北の庄(現在の福井県)に転封となると、それに従ったそうです。寛永四年(1627年)2月に山城大碌と同時に銘を「助宗」から「国清」に改めました。寛永5年に山城守を受領し、山城守国清の誕生です。寛永5年には朝廷から十六葉の菊紋を賜ったと言われています。
当時の越前北の庄には越前関と呼ばれる「兼則」「兼植」、初代康継の越前下坂一派。山城国よりは正則、虎徹の先祖にあたる長曾根系など数多くの名匠達がいたそうです。五十万石の城下町として、京、大阪につぐ大都市であったというので、さぞ賑やかで活気に溢れていたことと思われます。当時の一大派閥であった下坂初代康継が幕府から葵紋を賜っており、その勢力に対抗して国清は朝廷をたより、菊紋を賜ったと考えられているそうです。
刀工たちも、作刀だけでなく権力争い等色々と大変だったことが伺い知れるようですね。生きていくためにも、技術を残すためにもあがいているのは現在の人間とさほど変わらないのかも知れません。


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