「旅装に脇差」は日常の姿

江戸時代の初期においては、町人であっても刀と脇差の携行は自由とされていたのは、歴史の授業でもお馴染みの歴史なのではないでしょうか。その後、治安維持という目的から、町人の帯刀が禁止されることになったとされています。しかし、旅行の際や、火事の際、また、町年寄と呼ばれる町をとりまとめる役職を担っている者には帯刀が許されていたそうです。これは、護身や、格式を保つという目的があるようで、「帯刀と格式」というの関係は、実は確証を得られていないそうですが、刀は護身用の武器であると共に、正装時の装身具としても重要とされていたようで、町年寄たちは、儀礼用の衣装を着て、威儀を正す意味で刀を帯びていたとも言われているようです。町人が完全に帯刀しなくなったとされるのは、第5代将軍であった徳川綱吉が禁じてからとされているようです。しかし、この禁止令は、治安維持には関係がないと言われており、倹約と「身分に相応しい恰好を」という曖昧な観点からの禁止であったとされているようです。そのため、町人という身分であっても、何かしら特別な功績を上げ、幕府や藩から「名字帯刀」を許された者は例外であったと言われています。また、刀を帯びることは禁じられた反面、脇差は護身用具として認められていたとされ、旅行者は脇差を帯びて旅をしていたとされ、これは「道中差し」などと呼ばれ、よく知られているようです。されに、商人の家では、奉公人が夜間に仕事で外出する際にも身を守るために脇差を帯びるということもあったようです。刀は禁じられていたとされる江戸時代ですが、脇差を帯びるといった姿は、まだ民間でも一般的に見られていた姿であったのではないでしょうか。


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