勤皇刀

武井信正は下野国(北関東)武井村の出。江戸で作刀を学び、佐野国堀田家の抱え刀工となっ
た。自身が過激な尊皇捷夷派であった。捷夷思想が勤皇刀、尊王刀と呼ばれた無反りの直刀を流行らせた。三尺前後。剣術師範は別として差料は短く軽いものが常であった世、柄も長く異様な姿だった。太刀以前の上古刀の直刀を模した。その心は王政復古。

勤皇刀の刀工には斉藤清人、左行秀などがいた。復古刀というが、古刀をめざした江戸期の刀
匠たちの足元にも及ばない。作刀の中身でなく姿見だけにこだわった。

無反りの直万が出たので、反りについてひとこと。奈良時代は無反りの直刀である。平安時代に湾刀になり反りができたわけであるが、反りの深さ(高さ)、浅さ(低い)も時代によって変わった。剣による戦闘方法が変わったからだ。

太万は打刀より深い。平均七、人分(約二一~二四ミリ)か。打刀は四、五分(約十二~一五
ミリ)。これをもって反りが深い浅いという。ただし、新刀も慶長前後は深いが、新刀の頂点を極めた寛文では反りは二分(約六ミリ)ほどでかなり浅い。また太刀からの磨上げの打刀も多くあり平均をとるのはむずかしい。あくまで目安。

 


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