たたら製法と玉鋼の命名

紀元前、西アジアで起こった製鉄技術がインドから中国、そして朝鮮半島を経て日本に伝わったと言われています。日本で製鉄が始まったのは、弥生時代の後期であると伝えられており、その後、古墳時代から中世へと生産が盛んになり、古来からの「たたら」という製鉄技術は近世になるにつれ徐々に完成されて行ったそうです。

たたら製法とは、粘土で作った炉に砂鉄を入れ、木炭で燃焼させて玉鋼を作るというものとされている。この、炉の中の温度を上げるために空気を送り込む送風装置が「タタラ」と呼ばれていたことからこの名がついたと言われているようです。

日本刀は「玉鋼」で作られるということは日本刀を愛する人なら誰でも知っているのではないでしょうか。「玉鋼」とは文字も語呂も美しいことから、日本刀は、古代より玉鋼で作られていたと伝えられ、信じられてきました。しかし、玉鋼の名称は明治末年から大正時代に命名されたと言われる事が、とある書物に記されているようです。つまり、島根県安来製鋼所が陸軍工廠や海軍工廠に柑塙製鋼の原料として納入した鋼は、小形のものが「玉鋼」大きいものが「頃鋼」であったということになるそうです。名付けたのは同社の人で、いずれも商品名として名付けただけで、科学的な意味はなかったと説明されているようです。となると、玉鋼が命名される前は、どのように呼ばれていたのでしょうか。刀剣製作法についてのある書物には「わが国の鉄山の内、鋼は伯州・雲州・石州の三カ国のみ。また、南蛮鉄・ロシア鉄・オランダ鉄は各々その性質は異なるけれども、わが国の風に製錬するときはわが国の鉄と変わりは無い」と記されているようです。このことから、一般的には、産出地の名称を取り、出羽鋼、千草鋼などと呼ばれていた事がわかるでしょう。